1940年幻の東京五輪はなぜ返上された?中止の真相と知られざる歴史

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1940年幻の東京五輪はなぜ返上された?中止の真相と知られざる歴史
1940年幻の東京五輪はなぜ返上された?中止の真相と知られざる歴史
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🎵 1940年幻の東京五輪はなぜ返上された?中止の真相と知られざる歴史

今から80年以上前、アジアで初めて開催されるはずだった「第12回オリンピック競技大会」。1940(昭和15)年の東京大会は、華々しい招致決定劇から一転、開幕を目前にして日本政府自らの手で権利を返上し、世界大戦の荒波に呑まれて完全に消滅しました。歴史の表舞台から消え去り、「幻の東京オリンピック」と呼ばれるようになったこの大会の裏には、激動の昭和初期における国家の思惑と、スポーツ平和主義を貫こうとした先人たちの壮絶なドラマが存在します。

なぜ日本は悲願だったアジア初の五輪を手放さざるを得なかったのか。平和の祭典が軍靴の響きにかき消されていった経緯と、日本スポーツ界の父・嘉納治五郎の執念、そして現代に受け継がれた遺産を、膨大な歴史的資料と事実をもとに紐解きます。

📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
  • 要点1:1940年東京五輪は「皇紀2600年記念事業」として招致に成功したものの、日中戦争の泥沼化と軍部の圧力により1938年に日本政府が開催を自主返上した。
  • 要点2:東京だけでなく札幌冬季大会も同時に返上され、代替地となったヘルシンキも第二次世界大戦の勃発によって最終的に大会中止へと追い込まれた。
  • 要点3:駒沢ゴルフ場をメイン会場とする都市計画や和田三造による公式ポスターなど、当時の構想は1964年東京大会の成功を支える重要な布石となった。

【歴史の経緯】アジア初の招致成功から幻へ|1940年東京五輪の全貌

東京へのオリンピック招致運動が本格化したのは1930年代初頭のことです。当時の東京市長であった永田秀次郎らが、1940年が神武天皇即位から2600年にあたる「皇紀2600年」の節目の年にあたることから、国家的な一大祝祭事業として五輪招致を提唱しました。欧米中心だったオリンピックをアジアへ誘致することは、日本の国際的威信を世界に示す千載一遇の好機とみなされたのです。

招致実現に向けて最大の立役者となったのが、日本人初の国際オリンピック委員会(IOC)委員であり、柔道の創始者としても名高い嘉納治五郎でした。当時の日本は満洲事変を経て国際連盟を脱退しており、国際社会で急速に孤立を深めていました。欧州各国のIOC委員の間では「極東の地での開催は渡航期間や政情不安の面から時期尚早」という反対意見が根強く存在したものの、嘉納は高齢の身を押して世界中を飛び回り、スポーツによる相互理解と平和の尊さを熱弁しました。

その熱誠が実を結び、1936年のIOCベルリン総会における投票で、東京は対抗馬だったヘルシンキを「36対27」で破り、見事に1940年大会の開催都市に選出されました。同時に1940年冬季オリンピックの開催地として札幌も決定し、日本列島はアジア初となる東西両五輪のダブル開催決定に沸き立ちました。当時の計画では、世界約50カ国以上から数千名の選手団を迎える予定であり、世界規模のメガイベントに向けた準備が一気に加速していきました。

なぜ開催返上へ追い込まれたのか?日中戦争の影響と政府・軍部の決定打

招致決定の歓喜からわずか1年後の1937(昭和12)年7月、盧溝橋事件を契機として日中戦争が勃発します。戦線が瞬く間に拡大し、戦局が泥沼化するにつれて、国内の情勢はオリンピックどころではない「国家総力戦体制」へと急速に傾斜していきました。

五輪準備に対する最大の逆風となったのが、軍部からの強い反発と物資統制令です。陸軍省を中心とする軍部強硬派は「戦時下に国家の資源をスポーツの祭典に浪費するなど言語道断」と主張し、スタジアム建設に不可欠な鉄材や木材の使用を厳しく制限しました。さらに、海外の参加予定国であるイギリスやアメリカなどからも、中国戦線における日本の軍事行動に対する批判が高まり、「東京大会への参加をボイコットすべきだ」という国際的圧力も強まり始めました。

IOC内部からも開催能力を疑問視する声が上がる中、日本政府内では開催強行派と返上派の間で激しい議論が交わされました。しかし、1938年5月に招致の精神的支柱であった嘉納治五郎がカイロでのIOC総会からの帰国途上、氷川丸の船内で肺炎により客死します。最大の推進役を失ったことで、政府内のバランスは一気に返上へと傾きました。

そして1938年7月15日、近衛文麿内閣は閣議において東京大会および札幌冬季大会の開催権返上を正式決定しました。直ちにIOC本部へ開催返上声明が打電され、アジア初の五輪という壮大な夢は、開幕を約2年後に控えた段階で事実上の消滅を迎えることとなったのです。

幻の会場計画とポスター|駒沢ゴルフ場に描かれたメインスタジアム構想

開催準備が進められていた段階では、極めて野心的で先進的な施設計画が策定されていました。当初、メインスタジアムの建設候補地として明治神宮外苑競技場の拡張が検討されましたが、明治神宮の内苑に隣接する神聖な風致を損ねるとして明治神宮奉賛会などの強い反対を受けました。

そこで浮上したのが、当時の東京郊外に位置していた「駒沢ゴルフ場」の跡地(現在の駒沢オリンピック公園)です。ここに10万人規模を収容できる巨大なメインスタジアムをはじめ、水泳場、屋内競技場などを一堂に集めた総合スポーツコンプレックスを新設するマスタープランが描かれました。さらに、選手村を世田谷区砧(現在の砧公園周辺)に整備し、東京市街地と会場を結ぶための道路網や高速鉄道(地下鉄)の整備計画など、現代の都市開発の原型となるインフラ構想が次々と立ち上がっていました。

また、大会を彩るビジュアルデザインもすでに完成の域に達していました。洋画家の和田三造がデザインを手掛けた公式ポスターには、古代の武将を思わせる力強い仁王像のような男性像と、五輪のシンボルマークが重厚な色彩で描かれており、日本の伝統美と近代スポーツの融合を世界へ強烈に印象づける意欲作でした。記念切手や大会公式ガイドブックの原稿、さらにはギリシャ・オリンピアからシルクロードを経由して東京へとトーチをつなぐ「ユーラシア大陸横断聖火リレー」のルート策定まで進んでおり、計画の具体性は極めて高いレベルに達していたのです。

同時開催予定だった「1940年札幌冬季五輪」と代替地ヘルシンキの運命

東京の返上劇の陰に隠れがちですが、北海道で開催されるはずだった1940年札幌冬季オリンピックもまた、同様に過酷な運命を辿りました。札幌大会は大倉山ジャンプ競技場や藻岩山スキー場などを中心に競技施設を整備し、アジア初の本格的な冬季国際大会として準備が進められていましたが、東京大会の返上に伴い道連れとなる形で権利を返上せざるを得なくなりました。

東京と札幌の返上を受け、IOCは1940年夏季大会の代替開催地として、招致投票で次点だったフィンランドのヘルシンキを指名しました。ヘルシンキ市は急ピッチでスタジアムの改修や受け入れ態勢を整え、大会の存続に向けて全力を尽くしました。しかし、歴史の非情な歯車は止まりませんでした。

1939年9月、ナチス・ドイツによるポーランド侵攻によって第二次世界大戦が勃発。さらに同年11月にはソビエト連邦がフィンランドへ軍事侵攻を開始する「冬戦争」が勃発します。この結果、1940年1月にヘルシンキ大会の開催も完全に不可能となり、1940年オリンピックは代替地も含めて史上初めての「完全中止(大会不開催)」という最悪の結末を迎えました。同様に、札幌の代替地として選ばれていたドイツのガルミッシュ=パルテンキルヒェンでの冬季大会も中止となり、世界は暗黒の戦乱時代へと突入していきました。

1964年・2020年大会との決定的な違い|「幻の五輪」が戦後日本に遺したもの

1940年の挫折から24年後、日本は1964年東京オリンピックの開催によって、真の意味での「アジア初」の五輪を実現させます。両大会の歴史的背景と意義を比較すると、国家におけるオリンピックの役割の決定的な違いが浮き彫りになります。

項目1940年 東京大会(返上・中止)1964年 東京大会(成功)
開催目的皇紀2600年の祝祭、国威発揚戦後復興の証明、国際社会への完全復帰
社会情勢日中戦争の激化、軍国主義と物資統制高度経済成長期、平和憲法下での発展
都市基盤駒沢や外苑を中心とした計画段階で凍結東海道新幹線、首都高速、駒沢公園の完成
国際的立場国際連盟脱退後の孤立期西側陣営を中心とした国際協調の確立

1940年大会が「国威発揚」と「戦時体制」の狭間で引き裂かれたのに対し、1964年大会は「平和への誓い」と「焦土からの復興」を世界に示す象徴となりました。特筆すべきは、1940年にメインスタジアム用地として確保されていた駒沢の地が、1964年大会で第二会場(駒沢オリンピック公園)として見事に結実した点です。幻に終わった都市計画の青写真は決して無駄にはならず、戦後日本の高度経済成長とインフラ整備の確固たる基盤として息づいていました。

【1940年オリンピック】に関するよくある質問(FAQ)

Q1:1940年オリンピックの公式な扱いは「中止」ですか?「返上」ですか?
A1:日本の立場としては、1938年7月に開催権をIOCへ返還したため「自主返上」となります。しかし、その後に代替開催地となったヘルシンキも第二次世界大戦によって開催を断念したため、IOCの公式記録上は「第12回大会 中止(Cancelled)」として記録されています。

Q2:嘉納治五郎が招致に執念を燃やした理由は何だったのですか?
A2:嘉納はオリンピックを単なるスポーツ大会ではなく、東西文明の融合と国際平和を促進するための最高峰の文化事業と捉えていました。国際連盟脱退によって世界から孤立しつつあった日本を再び平和的な国際協調の枠組みにつなぎ止めるため、命を削って招致活動を率いました。

Q3:1940年大会のために作られたポスターや記念品は残っていますか?
A3:和田三造がデザインした第1回公式ポスターや各種パンフレット、寄付金付きの記念入場券などは現存しており、秩父宮記念スポーツ博物館や各地の公文書館などに貴重な歴史資料として所蔵・展示されています。

まとめ:平和の祭典の原点を問い直す歴史の教訓

1940年東京オリンピックの返上と中止の歴史は、スポーツの祭典が世界平和と国際協調という基盤なしには決して成立し得ないという厳然たる事実を物語っています。戦争という国家の暴走によって、選手たちの夢と先人たちの情熱は一瞬にして奪い去られました。

「幻の東京五輪」から紡がれた教訓は、1964年の輝かしい復興、そして未曾有のパンデミック下で開催された2020年大会を経て、今なお色あせることはありません。政治情勢や国際対立の荒波の中でスポーツが果たすべき真の役割とは何か。1940年の記憶は、私たちが未来に向けて平和の価値を再確認するための重要な羅針盤であり続けています。 (出典: 1940 年 オリンピック(Yahoo!ニュース)

1940 年 オリンピック
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