なぜ1940年東京五輪は幻となったのか?返上の真相と遺された証言
日本が熱狂に包まれた1964年、そして無観客開催という異例の事態に見舞われた2021年。これまで2度の開催実績を持つ東京ですが、歴史の波間に消えた「もうひとつのオリンピック」があった事実をご存じでしょうか。それが1940年(昭和15年)に開催されるはずだった第12回オリンピック競技大会、通称「幻の東京オリンピック」です。
アジア初となる平和の祭典として世界中から招致を勝ち取りながら、なぜ日本政府は開幕のわずか2年前に権利を返上せざるを得なかったのか。NHK大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜』でも脚光を浴びた当時の激動と、主導したキーマンたちの思惑、そして幻となった会場計画の全貌を、現存する貴重な史料とともに紐解きます。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 要点1:1940年東京大会はアジア初開催として決定したが、日中戦争の泥沼化と軍部の反発により1938年7月に自主返上へと追い込まれた。
- 要点2:柔道の父・嘉納治五郎の命を賭した招致活動や、駒沢を主会場とする巨大都市計画、すでに刷られていたポスターや記念品など多くの痕跡が残る。
- 要点3:冬季の札幌大会とともに消滅したものの、その設計思想やインフラ構想は戦後の1964年東京オリンピックへと脈々と受け継がれた。
【アジア初の悲願】1940年東京五輪の招致劇と嘉納治五郎の執念
1940年大会の招致活動が本格化したのは1930年代初頭のことでした。当時の東京市は、関東大震災からの復興を世界にアピールするとともに、皇紀2600年にあたる記念すべき1940年に国際的な大事業を成功させようと国家的なプロジェクトを立ち上げます。
立候補都市にはイタリアのローマやフィンランドのヘルシンキなど強力なライバルが名を連ねていましたが、日本の招致団の先頭に立ったのが「日本体育の父」と称される嘉納治五郎でした。嘉納はIOC(国際オリンピック委員会)委員として持ち前の語学力と国際人脈を駆使し、「オリンピックは欧米だけのものではない。アジアでの開催こそが真の世界平和につながる」と情熱的に説いて回ったのです。
その熱意が実を結び、1936年のベルリンIOC総会において、東京は36票対27票で見事ヘルシンキを破り開催地に選出されました。東洋初のオリンピック誕生に当時の日本国内は沸き立ち、新聞各紙は号外を出し国民的な祝祭ムード一色となりました。
【返上の真相】日中戦争の泥沼化と開催中止へ追い込まれた歴史的背景
しかし、歓喜の瞬間からわずか1年後、情勢は暗転します。1937年7月7日に勃発した盧溝橋事件を契機に、日中戦争が全面化。戦線が拡大するにつれて、国内では「戦時下においてスポーツの祭典にうつつを抜かしている場合ではない」という軍部や右翼勢力からの批判が急速に高まりました。
国際的にも、軍事行動を強める日本に対する風当たりは厳しさを増し、イギリスやアメリカをはじめとする各国で東京大会へのボイコット運動が取り沙汰されるようになります。鉄や木材などの重要物資はすべて軍用に優先され、スタジアム建設用の資材調達すら困難を極めました。
招致の最大の推進力であった嘉納治五郎は、1938年春のカイロIOC総会で懸命に開催の継続を訴え、各国の理解を取り付けたものの、帰国途上の船上で肺炎を発症し1938年5月4日に客死。最大の支柱を失った日本政府は、陸軍の強い圧力に抗しきれず、同年7月15日の閣議においてオリンピックの開催権返上を正式決定しました。名目上は「延期」とされたものの、事実上の開催中止であり、アジア初の夢はここに潰えたのです。
【幻の会場計画】駒沢メインスタジアム構想と首都・東京の都市大改造
大会に向けた都市インフラや競技施設の計画は、当時の技術とスケールを結集した壮大なものでした。当初メインスタジアムには明治神宮外苑競技場の大規模改修が予定されていましたが、神域の景観を損ねるという明治神宮側の強い反対に遭い、計画は難航します。
そこで浮上したのが、東京府荏原郡駒沢町(現在の世田谷区駒沢)にあるゴルフ場跡地でした。ここにおよそ10万人を収容可能な超巨大メインスタジアムを建設し、周辺に陸上競技場、水泳場、屋内競技場を集約する「総合運動場構想」が策定されたのです。さらに選手村は現在の世田谷区等々力付近に計画され、選手輸送のために放射道路や高速鉄道網を整備するという、現代の都市計画の先駆けとなる図面が引かれていました。
これらの建設計画は返上によって一度は白紙に戻されたものの、その用地と構想は完全に失われたわけではありませんでした。戦後、この駒沢の広大な敷地は1964年東京オリンピックの第2会場(駒沢オリンピック公園)として見事に再生され、幻の都市計画は四半世紀の時を経て結実することになります。
【幻の遺産】すでに発行されていた幻のチケット・公式ポスター・記念メダル
開催中止の決定が2年前という直前のタイミングだったため、大会運営に必要な宣伝物や記念品はすでに多数制作されていました。
代表的なものが、グラフィックデザイナーの和田三造らが手掛けた公式ポスターです。古代の甲冑を身にまとった武士が描かれた力強い意匠のポスターや、日の丸と五輪マークを大胆にあしらったデザインなど数種類が完成し、国内外へ配布され始めていました。
さらに、大蔵省造幣局では記念メダルの試作が進められていたほか、大会入場券(チケット)の先行予約や各種記念絵葉書、さらには「東京オリンピック音頭」といったタイアップ楽曲のレコードまで流通していました。現在でもこれらの一部は歴史的資料としてスポーツ博物館などに収蔵されているほか、古物市場やオークションにおいて非常に希少価値の高いコレクターズアイテムとして取引されています。
【連鎖した悲劇】幻の1940年札幌冬季オリンピックと代替地ヘルシンキの運命
1940年に幻となったのは、東京の夏季大会だけではありません。当時の五輪規約では同一年内に同一国で冬季大会を開催することが通例となっており、北海道札幌市において第5回冬季オリンピック(幻の札幌オリンピック)の開催が決定していました。
札幌では大倉山ジャンプ競技場などの施設整備が急ピッチで進められていましたが、東京の返上に伴い札幌大会も同時に返上を余儀なくされます。その後、代替開催地として名乗りを上げたのはヘルシンキ(夏季)とサンモリッツ(冬季)でした。
しかし、翌1939年9月にナチス・ドイツのポーランド侵攻によって第二次世界大戦が勃発。代替開催地での準備も完全にストップし、1940年のオリンピックそのものが夏季・冬季ともに世界史上から完全に消滅するという悲劇的な結末を迎えました。
【幻の東京オリンピック】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:1940年の大会は「中止」ではなくなぜ「返上」と呼ばれるのですか?
A1:IOCから開催権を剥奪されたのではなく、日本政府自らが閣議決定を経て開催権を国際オリンピック委員会へ自主的に返還したという歴史的経緯があるため、一般に「返上」という表現が用いられます。
Q2:大河ドラマ『いだてん』ではこの返上の真相はどう描かれましたか?
A2:主人公の田畑政治や嘉納治五郎らが国境を越えた友情とスポーツの力で平和を掴み取ろうとする一方、軍靴の足音が近づくにつれて国家の都合に翻弄され、涙を呑んで返上を受け入れる苦渋のドラマとして克明に描写されました。
Q3:幻の大会のために作られた施設で現存するものはありますか?
A3:スタジアム本体の完成には至りませんでしたが、戸田漕艇場(埼玉県戸田市)のようにボート競技会場として整備が進められ、戦後の1964年大会でもそのまま競技会場として使用されたインフラが存在します。
まとめ:歴史の闇に消えた五輪が現代の東京に遺したもの
1940年の幻の東京オリンピックは、国際平和を標榜するスポーツの理念が、激動する世界情勢と国家の戦争遂行という圧倒的な波に押し流された象徴的な出来事でした。
志半ばで倒れた嘉納治五郎の情熱や、開催に向けて引かれた先進的な都市計画の図面は、敗戦の焦土からの復興を目指した1964年の東京オリンピックの成功へと直接つながっていきました。平和であって初めてスポーツの祭典が成り立つという歴史の教訓は、混迷を深める現代を生きる私たちにとっても、色褪せることのない重みを持ち続けています。 (出典: 幻 の 東京 オリンピック(Yahoo!ニュース))